音楽
うちの合唱団のtenorのleaderをやっていらっしゃるorzwさん【すごいヤツ。こういうのがいるから,東大に来て良かった,と思える。】が,「自分がこうなりたいと思う理想像とかありますか?」という(某batonの)質問に対して,こんな回答をしていた(一部のみ抜粋して引用)。
合唱なら、一生懸命練習してることとか、歌が上手いこととかで得意にならず、お客さんに自分たちの合唱を楽しんでもらったり、曲を純粋にお客に理解してもらおうという姿勢で取り組み、実際そのことしか考えてない域に達する。
今,合唱団員としての僕は,というか僕たちの合唱団は,12月3日の演奏会に向けて,曲の音取りに励んでるわけだけど,しかし音楽とはそういうものではないのではないかと,orzwさんの記述を読んで思った。
僕は少なくとも6歳からの15年間,ずっと音楽をやり続けてきて,とは言ってもそれはそれほど濃度の高いものではなく,小学校の間は「pianoのお稽古」の域を出ないものであった。中学に入るとそれなりに弾けるようになり,自分の楽しみの為に弾くようになった。そして現在では,他人に聴かせることが出来ないほどに腕が落ちてしまった。家にpianoが無いのでまぁ無理である。【将来は絶対に家にpianoを入れて,それなりに練習して色々弾けるようになりたいと思う。】だから,今僕がpianoを弾くのは,誰かに聞いてもらおうというよりは,ただ自分の為だけであることが多い。
自分の為に弾くのは,誰かに聞かせるのとは根本的に違う。弾き方が違う,というか曲自体がまるっきり別のものになってしまうのだ。自分の為に弾くときには,その曲を解釈しない。というか,一度自分の中にその曲を落としてそこから曲自体を再生産する。旋律だけを借用して自分の表現したいものだけを表現するとも言えるだろう。しかしやはりその旋律は,本来の作曲家の意図に沿って弾かれた時に最も輝くはずである。だから自分の為に弾くときの曲は「本物」ではなく,いくら名曲でも「駄作」に過ぎないものとなる。
しかし他人に聴かせるのならば,やはり最良のものでなければならない。少なくとも自分の技術で弾ける中での最良でなければならない。(勿論自分の技術を向上させることも大事である。)であるから,やはりその曲の「正しい解釈」,つまり僕が先生に教わったり,僕なりに譜読みをしたり背景知識を調べたり,そうして得られた解釈を元に弾かなければならないのだろう。そうして弾くときには,譜面に書かれてある一音一音を「弾か」なければならない。つまり一音一音に魂を込めなければならない。
どう魂を込めるのか。楽譜に書いてあることは最低限である。Crescendやaccentは当然だし,tenutoの有無も音を大きく変える。Legatoも有無ぐらいは最低限のことだろう。というか自分の為に弾くときにも(敢えてそれを破ろうという気分の時以外は)これくらいは守る。そもそも,ここまでには解釈は存在しない。解釈をするのはここからである。まず技巧面。どの音が聞くべき音,「弾く」音なのか。長さは楽譜通りで良いのか。どんなtouchで叩くのか。Crescendはどういう入りでどこまでか。Accentは押すのか叩くのか強さはどこまでか。Tenutoは重いか優しいか拍を崩すまでやるか。Legatoはしつこいか爽やかか。そして構造面。主題はどこにあるのか。今は音楽のどこに当たるのか。今はどこに演奏者と音楽がいるのか。そもそもこれはいつ弾く曲なのか。さらに感情面。「どう弾くか」。どこまで感情を乗せるのか。
大変だ。考えることが多すぎる。
が,実はそれほど難しくない。何度も引いているうちに自然とわかってくる部分もあるし,先生が指摘してくれれば大抵その指摘は全てを満たしている。
僕は高校時代,白井先生に師事したとき,competitionに出場したとき,最初で最後の「他人に聴かせる演奏」をした。
さて。今は合唱だ。あぁ,楽じゃないか。一度に弾く音はたったの1つしかない。いや,実際には沢山の音を一度に弾いているわけだが,しかしそれは弾いていることを理解しさえすればいいのであって,実際には弾かなくて良いのだ。
というわけで,僕は音取りに励むのをやめる。
音はさっさと取って,早く「弾ける」ようになろう。
Comments
Newton 2006/06/15(Thu) 18:59:21
Phitoncide とは何ですか?
Misho 2006/06/18(Sun) 07:14:03
しらなーい。